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立山周平の徒然日記
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RWC2019宮崎合宿
ラクビーワールドカップ強化合宿宮崎-1   (2015ー7-13記)
● 2015年9月ラクビーワールドカップ・イギリスへの、全日本ラクビー桜ジャパンは、このリゾート地に4月初めから、8月末まで5ヶ月の間、強化合宿のためベースチャンプを張っています。

● 7月11日、雨にもかかわらず、宮崎シーガイアリゾートの一角には多くのラクビーフアンが集まりました

● RWC強化合宿は4年前の第7回ニュージーランド
大会 の為からここ宮崎で行われていました。
かなり昔の10年間ラクビーの底辺で現役を過ごした私にとっては、オールジャパンの強化合宿風景を目の当たりにするのは、初めてでした。現役で過ごしたのは半世紀近く前の事、ラクビーそのもの、の変わりように大変驚いたものです。その時は、練習風景だけでは、興味の持てるスポーツである事を初めての人に説明するには難しく感じたものです。

● ただ今回,先きの合宿とのその違いを感じるには、そう時間はいりませんでした。グランドでの練習風景,だけをとっても随分違うように観えます、我々ほとんどの素人でも感じられました。また合宿の周囲に、[JAPAN WAY]と言うこのチームの標語なのでしょうか、言葉が見当たります。「ジャパン方式」とでもいうのでしょうか,このチームがかつて無い強さをつけている、意味がよく分かったような気がしたのです。さらにHCのエディ・ジョーンズさんのおかーさんが日本の方だったと言う事もなぜか親しみ安さを感じた一因でしたでしょう。ちなみに奥様も日本の方とか

● 今年の桜ジャパンへの期待は、宮崎のラクビーフアンを急激に近づけました。宮崎ラクビー協会の方々の力添えで、ラクビー
フアンと選手達の交流の目的もあり、多くの人たちがグランド内でまぢかに迫力のある練習風景に接する事が出来たのです。

● 練習後、子供達とのサイン会でにおおいにぎわいました。にわかラクビーフアンと言えどなかなか楽しい一日であった様です。

● こののち、選手達はアメリカ・カナダに遠征、何試合かマッチプレイで1ヶ月程宮崎を留守にいたしますが。一段と力を増して8月11日にはまた宮崎に帰ってくる事になります。RWC直前桜ジャパンにまた宮崎で会える事は、とてもたのしみです。宮崎人へのご褒美でしょうか。
写真提供Nana Morita
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# by shuhei-tateyama | 2015-10-15 22:32
2014年誕生日
5月14日 FBの友、メル友の方々へ、皆様からの多くのバースディ、メッセージを有り難うございました。大台に乗る節目の誕生日と成りました。

当日の1日を振り返り,そのお礼とします。
 午前中、雨降る中,両親、立山家の墓参りを致しました。
 夜は宴奏者者達と、街に出る事にしておりましたので,昼食会とし,橘橋、南詰めを東に折れ150m程でしょうか、私の希望で、「魚安」での,宴を頂きました。 
 一度行ってみたいと思いましたが、なかなか機会がありませんでした、かなった事うれしく思います。63年ぶりの「魚安」でした。

 63年ぶりなんて,と思いでしょうが、実は,ものごころ付き、大淀小学校に入学するまで,ちょうどこのお屋敷の前に住んでおりました。旅館だったと記憶しているのですが,よくその庭を通りすぎて,大淀川にで,エビやウナギを追いかけていたものです。その庭さえも小僧のときの遊び場でした。
 その下には,通称「漁連」が有りまして,この通りは、けっこう賑わっていたのです,
その手前のお寺では幼稚園もされていて、入り口には大きな樹があり,木登りに落ちて,たんこぶを作ったのも,骨を折り、大けがをした思い出が有ります。
近くには,映画館、銭湯も遊び場だった様に思います、この旅館の並びには、スマートボールでしょうか、四つ玉、玉突きなども有り。訳の分からないカラクリを駆使した遊技場も記憶しております。
 
 そこで私の父親は、農家から大量に野菜や果物を仕入れて、八百屋をやっておりました。
が、風呂上がりの夕方には、障子一枚隔てた座敷には、マージョン卓が置かれ、魚安で合宿でもしておられたのでしょうか、巨人軍の方達も遊びにこられていた様です。私は良く千葉選手の膝に抱かれるのが、お気に入りだったそうです。母は,滋賀県草津の出で、兄弟はバッテリーを組んで甲子園球児でありました。本人も軟式テニスの関西選手権を持っており、後に実家で、その時の写真や新聞記事、ボールとラケットも、おいてあるのを見せてくれたものです。そんな親でしたから、昼間は良く県営球場に、その人達の野球を見に連れて行ってくれました。
 ちなみに母は、人見絹枝さんより陸上を進められ、オリンピックの候補選手にも成った事が有るとか。今の私には想像もできないでしょうが、後に大阪に移り、中学に入ると、親から陸上を進められ、自ら私のコーチまでしていました。大阪大会で、11秒台では有りましたが、6位ぎりぎりでアナウンスされ、その屈辱に声を立て泣いた事を、覚えております。
 
 親達が生きているうちに、なぜ一緒に来なかったのかと、孝行は生きてるうちに、と言いますが、食事の後、庭を見せて頂きながら思ったものでした。もっとも私の子供の頃のイメージは全く異なってはおりましたが。  とてもすてきな、庭と料理でした。
うれしい誕生日の宴をありがとうございました。

 その後、シーガイアで、夜の街での宴の為、時間をつぶしておりました。友人が、演奏者TK女史と、場合によってはSH氏に連絡し、街の場所が決まり次第私に電話が有るはずだったのでした。だがあろうことか、あまりの雨音に、意を無くしたのか、「今日は、辞めましょうよ」と言う。「そうだね」心と声は裏腹に、そう答えてしまいました。まだ出るには早いとも思い、ぬれた上着を着替える為に、一旦返って、奥様と、再度出かけようと、おもっておりました。。ですが、「一旦返るから」とは連絡したものの、家に帰ると、居るはずの無い孫達に、いきなりバースディソングに迎えられ、思わぬ娘一家とのホームパーティにと化し、とても複雑なものでした。街での飲み会を諦めることでしょうか。行きさえすれば必ず、彼女達と会えると、頭に有りました。

 彼らのプレゼントはバラの植木、いずれ花壇に植え替え、孫達と一緒に、成長を楽しむ事としますが、もう8時過ぎると、寝込んでしまったのです。
写真1
(どうしてもその写真がアップできません)

 10時過ぎ、事件が起こりました、私の誕生日を何時も街で飲んでる事を知る彼女からの電話で、「何処で飲んでるの」「連絡も無いじゃない」「出ておいでよ、みんなで飲んでるよ」誘いを頂きました。もうさすがにダウンでした。
私は激怒、結局、彼女に何も伝えず、なんの手はずもしていなかったんだ。あの野郎。

 今、宮崎は国際音楽祭の最終盤です、この音楽祭の時期は、コンサートの終わりに、その余韻のまま、街に繰り出すのが、常と成りました。此の国際音楽祭とともに年を食って来ました。来年で20年、
いつも楽しい、素晴らしいバーズディパーティを頂いております。
 18日は、音楽祭の最終日、お疲れさんと、来年の再会の為に、アーティスト達とのさよならパーティが開かれます。宮崎観光ホテル6:00過ぎごろからに成るでしょうか、だれでも会費を払って参加できます。皆さん訪ねてみてはいかがでしょう。

 小生20日には健康診断の日です。しばらくは酒と煙草を控えなければと思います。
皆様の御健康を祈ります。有り難うございました。
 
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# by shuhei-tateyama | 2014-05-18 00:33
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# by shuhei-tateyama | 2014-05-13 12:55
京の四季−3
 京都から運び込まれた、2点の屏風は、仕事場がなかなか空けられず、梱包を開くのが、とうとう,今日になってしまいました。
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かすかに「48年作立山周平」とありますが。
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この絵は私に取って,かなり重要なものとなりました、すこしだけ,疑いを持たせながらも、青春真ただ中の記憶を呼び戻してくれます。

こうして作品にわざわざ制作年度を入れた記憶がなく、めずらしいことでした。

この作品の制作は、京都美大の学生時代最後のものです。まだ東山に学校が有りこれは教室では狭すぎて講堂を陣取り、シナベニアの、フラッシュパネルを四枚一組にし、四点の作品にした一点です。

 四条河原町から出町柳までの途中、立命館大学の正門をすぎて右には府立病院が見える頃、その正面あたりだったと、記憶しますが。
まさに出来たばかりの「京都府立芸術会館」にて、最も信頼できる一学年先輩の染色作家との2人展でした。
 
 京都東山の麓に有った京都市立美術大学の小さなグランドで何時もラクビーボールをかかえ走っていた、ふたりです。
彼は、一年浪人して小倉から出てきた,同じ九州男児。川端孝則スクラムハーフで、私は変則でしたが同じバックス13番、常に第一センターをやっていて、間に川端と同じ学年の日本画科の青山耕平がいました。この二人のコンビは抜群のタイミングを持っていて、天才の様に思えたものです。
  この絵を前にして、次々と思い出されてきます。
 私はその二人の横に必ずついていました、彼らがだすタイミングと私がそのボールを取りにいくタイミングが合った時、必ず点が取れる、それはそれは、快感でした、わたしは自由に突っ込んで行けたものです。
 なにしろ、私の後ろには、必ずバックローセンターの岡野誠二、とフロントロー一番を背負った三上浩がフォローをしていたんです。
 最後に同級生のフルバックの山形文則が加わるとまさに絵に描いた様なトライでした。同じクラスメートで常に,そちらの方では良きライバルであった、白数徳男,瀬川基が岡野の両サイドをかためて居ました。決して美大のエリートコースを追いかけたもの達ではなかったけれども、常にアウトサイダーではあったけれども、我が道をしる、美大の庭を闊歩していた連中でした。何科を卒業ですかと聞かれると、「ラクビーです」胸を張ってそう言ったものです。
彼らがいてこそ、巧く卒業できたと言えるでしょう。彼らこそ良きライバルでありました。
 
そう、思い出せばこんな道に誘ったのは、後に電通一本を全うしたデザイナーとなる、岡野誠二でしたね。

 宮崎を離れ一時居を構えた、大阪浪速区大国町。国道を挟んで目の前に大阪府立今宮高校があり、何の選択肢もなくそこで3年間を過ごすのですが。
最近出た、経済誌「エコノミー」に,関西の名門校として、この学校のことが記載されていました。
 --〈大阪の繁華街のど真ん中にある学校である。東側700Mには、観光名所の通天閣が有り、日雇い労働者が多いあいりん地区もすぐ近くである。
お世辞にも文教地区とは言えないが、この高校には前身の旧制今宮中学から続くエネルギーがあふれているようである〉———とある。
 
東京の山谷、大阪の釜ヶ崎、と言われ、年の暮れなど、良く暴動を目の当たりにしたものです。ちょうど今頃、お盆の最中は、今あいりん地区と呼ばれる広場では、大きなヤグラがたち、夜空をツンザク河内音頭で、連夜とてもにぎやかなものでした。家からも遠くにスピーカーでの歌声が聞こえたものです。

大学を失敗した私は、そんな環境のすぐそばの、大阪市立美術館の地下に、美術研究所を知り,まだ京都美術大学など、頭になかった時代です。中学、高校時代と腎臓病におかされ病院通いの生活で、まともな高校生活をエンジョイした記憶も有りません、宮崎から出てきて数年は経ったはずなのにまだ大阪になじめなかったものです、美術大学にいこうなどと思いもしなかった頃でした。
 公立だったからでしょう、月500円で、石膏デッサン教室などで、月いち、批評会などがあり,デッサンの要領など解ると、ヌードセッサンの部屋にも入れてくれました,絵描きの卵達も、大勢居られて「マロニエ」、フランス風の画材屋さんにも親切に教わったものです、何か、絵描きの世界に触れた様で、うきうきしたものです。
 そこに、北野、阿部野、天王寺、高津そして今宮、とそれぞれ違った学校から、一浪の学生達が,集まっていました。いつの間にか友達になっておりましたが、そこに山本陽子と岡野誠二が居て、私を除いて皆、美術大学を目指す為に、ここに来て居ることが解りました。
 少なからず最初のカルチャーショックだったのかもしれません。
 彼らのおかげで、いつの間にか私も京都美術大学を意識し始めたのです。
 特に山本陽子は抜群のデッサン力を見せてくれました、いち早くヌードデッサン室に行き、我々男どもに男のヌードを見せてくれました。羨望とあきらめが交差したものです、結果岡野は京都美大のデザイン科へ、山本は当然の様に油絵科へ進みます。
私は日本画へと進もうとおもいはじめていました。
かつてこの美術館で、横山大観の、生々流転を、見た記憶が会ったからでしょうか。
東山の京都美術大学へは、実技受験のためが、はじめてでした。ちなみに学科は同志社の校舎だったと思います。
 美大は、木造のとても古いもので、天下の美術大学てこんなに古いのか、昔の小学校を思い出していました。
 残念ながら、というよりも、なる程皆巧いな、ただ感心するばかりで、既に負けたなと思っていましたが、喪失感は生まれてきませんでした、こんな経験が出来て、なぜか幸せな感じさえしていたものです。

 この浪人中の一年が,最初の私の道を決定してくれたものでした。
 
どうしてもこの学校に入ろうと、現実的な目標が出来、想像もしなかった世界へ、入れるかもしれないと、行儀が悪いと感じながらも。他の人たちの受験風景を楽しんでおりました。そこに、また1年後ここで会うことになる植田泰海が居たんです、ともに1浪の身で。
 
 この絵が、今アトリエで、梱包を開き、見つめている間に、様々な友人達の顔を思い出させてくれます。大学時代の30人のクラスメートの名前は忘れていいても、一気にフルネームが出るのに今更ながら不思議な縁さえ感じております。
 そんな友人達に、私も感化されて行ったのでしょう。

 あえて公言できるのです、この絵は私に取って、最も重要な絵と、なって、
第2の次なる道へと導いたものといえるでしょう。

その前に、美大に入ることので来た、いきさつと、この絵にたどり着くまでの出会いも思い出しております。
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# by shuhei-tateyama | 2013-08-13 01:10
京の四季−2
京の四季−2

 九州に台風4号が接近するという、そんな最中、京都から発送した陶器1点
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と2種類の屏風2点
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が、国富工房に届けられた。

外は大雨である、天気が回復するのを待って梱包を開くことにしよう。
 
 其の屏風の1点は、学生の最後に描いた4点の作品の中の1点である。前記の様に与えられた,実習室では十分の広さがなく、講堂の一部を占領して、パネルも近くの材木屋さんから頼んで学校まで運んでもらい, 普通なら「六つ割り」と言ったかな,3寸角の柱を六つに割ったもので,鋸目を引くと(1寸×1寸5分)だから約3cm弱×4,5cm弱の棒を作ってもらい、パネルを制作する骨に使って鋸、金槌と釘を使い,自作の簡単なものが常であったのだが、この時は間仕切りの建具か屏風仕立てにしようとあえてフラッシュにしてパネルの厚みを2cmに押さえた。    「みんなとは違うんだよ」と少し悦に入ったことを覚えている。
 今思えば、材木屋さんに頼むのでなく襖屋さんに頼めば、なんてことなかったのであろうが、まだ学生気分は、そこまでのアイディアが浮かばさなかった、はじめから屏風を頼んでおけばなお良かったのであろうが、そんなプロの職人さんに頼むことなど、全く考えもつかなかったものである。京都の店から搬出のおり、こんなに重かったかびっくりであった、トラックに乗せるまで、4人の力が必要であった。 多分、学校での制作、京都での個展お後、東京での個展に使用するまでも、まだ屏風仕立てではなかったはずである。あの頃はいくら若かったといえ,一人では作業するには、あまりにも重すぎたからである。
この時の4点の作品のうち、1点はまだ手もとに有り、いろいろ手を加え遊びすぎて今見る影もない、さらに1点は4枚バラバラにして全く違った絵にして其の部分を利用して、別の絵となり、2枚分は、人手に渡ったはずである。残り2枚は粗末な倉庫に入れたままでベニヤが湿気てシロアリの餌食になった、さらにもう1点は、そのままの姿を残したまま、今の国富でのアトリエを建てる時に間仕切りとして建具に使用していた時期が有る、
 後に修正をして、工房での個展で披露し、その折に蝶番をつけて、長野の木曽福島興善寺の宝物殿に,他の多くの作品と一緒に収まっている、
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京都で、まとめて描いた最後のシリーズだったかもしれない。
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# by shuhei-tateyama | 2013-06-23 18:53