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立山周平の徒然日記
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<   2013年 08月 ( 1 )   > この月の画像一覧
京の四季−3
 京都から運び込まれた、2点の屏風は、仕事場がなかなか空けられず、梱包を開くのが、とうとう,今日になってしまいました。
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かすかに「48年作立山周平」とありますが。
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この絵は私に取って,かなり重要なものとなりました、すこしだけ,疑いを持たせながらも、青春真ただ中の記憶を呼び戻してくれます。

こうして作品にわざわざ制作年度を入れた記憶がなく、めずらしいことでした。

この作品の制作は、京都美大の学生時代最後のものです。まだ東山に学校が有りこれは教室では狭すぎて講堂を陣取り、シナベニアの、フラッシュパネルを四枚一組にし、四点の作品にした一点です。

 四条河原町から出町柳までの途中、立命館大学の正門をすぎて右には府立病院が見える頃、その正面あたりだったと、記憶しますが。
まさに出来たばかりの「京都府立芸術会館」にて、最も信頼できる一学年先輩の染色作家との2人展でした。
 
 京都東山の麓に有った京都市立美術大学の小さなグランドで何時もラクビーボールをかかえ走っていた、ふたりです。
彼は、一年浪人して小倉から出てきた,同じ九州男児。川端孝則スクラムハーフで、私は変則でしたが同じバックス13番、常に第一センターをやっていて、間に川端と同じ学年の日本画科の青山耕平がいました。この二人のコンビは抜群のタイミングを持っていて、天才の様に思えたものです。
  この絵を前にして、次々と思い出されてきます。
 私はその二人の横に必ずついていました、彼らがだすタイミングと私がそのボールを取りにいくタイミングが合った時、必ず点が取れる、それはそれは、快感でした、わたしは自由に突っ込んで行けたものです。
 なにしろ、私の後ろには、必ずバックローセンターの岡野誠二、とフロントロー一番を背負った三上浩がフォローをしていたんです。
 最後に同級生のフルバックの山形文則が加わるとまさに絵に描いた様なトライでした。同じクラスメートで常に,そちらの方では良きライバルであった、白数徳男,瀬川基が岡野の両サイドをかためて居ました。決して美大のエリートコースを追いかけたもの達ではなかったけれども、常にアウトサイダーではあったけれども、我が道をしる、美大の庭を闊歩していた連中でした。何科を卒業ですかと聞かれると、「ラクビーです」胸を張ってそう言ったものです。
彼らがいてこそ、巧く卒業できたと言えるでしょう。彼らこそ良きライバルでありました。
 
そう、思い出せばこんな道に誘ったのは、後に電通一本を全うしたデザイナーとなる、岡野誠二でしたね。

 宮崎を離れ一時居を構えた、大阪浪速区大国町。国道を挟んで目の前に大阪府立今宮高校があり、何の選択肢もなくそこで3年間を過ごすのですが。
最近出た、経済誌「エコノミー」に,関西の名門校として、この学校のことが記載されていました。
 --〈大阪の繁華街のど真ん中にある学校である。東側700Mには、観光名所の通天閣が有り、日雇い労働者が多いあいりん地区もすぐ近くである。
お世辞にも文教地区とは言えないが、この高校には前身の旧制今宮中学から続くエネルギーがあふれているようである〉———とある。
 
東京の山谷、大阪の釜ヶ崎、と言われ、年の暮れなど、良く暴動を目の当たりにしたものです。ちょうど今頃、お盆の最中は、今あいりん地区と呼ばれる広場では、大きなヤグラがたち、夜空をツンザク河内音頭で、連夜とてもにぎやかなものでした。家からも遠くにスピーカーでの歌声が聞こえたものです。

大学を失敗した私は、そんな環境のすぐそばの、大阪市立美術館の地下に、美術研究所を知り,まだ京都美術大学など、頭になかった時代です。中学、高校時代と腎臓病におかされ病院通いの生活で、まともな高校生活をエンジョイした記憶も有りません、宮崎から出てきて数年は経ったはずなのにまだ大阪になじめなかったものです、美術大学にいこうなどと思いもしなかった頃でした。
 公立だったからでしょう、月500円で、石膏デッサン教室などで、月いち、批評会などがあり,デッサンの要領など解ると、ヌードセッサンの部屋にも入れてくれました,絵描きの卵達も、大勢居られて「マロニエ」、フランス風の画材屋さんにも親切に教わったものです、何か、絵描きの世界に触れた様で、うきうきしたものです。
 そこに、北野、阿部野、天王寺、高津そして今宮、とそれぞれ違った学校から、一浪の学生達が,集まっていました。いつの間にか友達になっておりましたが、そこに山本陽子と岡野誠二が居て、私を除いて皆、美術大学を目指す為に、ここに来て居ることが解りました。
 少なからず最初のカルチャーショックだったのかもしれません。
 彼らのおかげで、いつの間にか私も京都美術大学を意識し始めたのです。
 特に山本陽子は抜群のデッサン力を見せてくれました、いち早くヌードデッサン室に行き、我々男どもに男のヌードを見せてくれました。羨望とあきらめが交差したものです、結果岡野は京都美大のデザイン科へ、山本は当然の様に油絵科へ進みます。
私は日本画へと進もうとおもいはじめていました。
かつてこの美術館で、横山大観の、生々流転を、見た記憶が会ったからでしょうか。
東山の京都美術大学へは、実技受験のためが、はじめてでした。ちなみに学科は同志社の校舎だったと思います。
 美大は、木造のとても古いもので、天下の美術大学てこんなに古いのか、昔の小学校を思い出していました。
 残念ながら、というよりも、なる程皆巧いな、ただ感心するばかりで、既に負けたなと思っていましたが、喪失感は生まれてきませんでした、こんな経験が出来て、なぜか幸せな感じさえしていたものです。

 この浪人中の一年が,最初の私の道を決定してくれたものでした。
 
どうしてもこの学校に入ろうと、現実的な目標が出来、想像もしなかった世界へ、入れるかもしれないと、行儀が悪いと感じながらも。他の人たちの受験風景を楽しんでおりました。そこに、また1年後ここで会うことになる植田泰海が居たんです、ともに1浪の身で。
 
 この絵が、今アトリエで、梱包を開き、見つめている間に、様々な友人達の顔を思い出させてくれます。大学時代の30人のクラスメートの名前は忘れていいても、一気にフルネームが出るのに今更ながら不思議な縁さえ感じております。
 そんな友人達に、私も感化されて行ったのでしょう。

 あえて公言できるのです、この絵は私に取って、最も重要な絵と、なって、
第2の次なる道へと導いたものといえるでしょう。

その前に、美大に入ることので来た、いきさつと、この絵にたどり着くまでの出会いも思い出しております。
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by shuhei-tateyama | 2013-08-13 01:10