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立山周平の徒然日記
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京の四季−2
京の四季−2

 九州に台風4号が接近するという、そんな最中、京都から発送した陶器1点
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と2種類の屏風2点
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が、国富工房に届けられた。

外は大雨である、天気が回復するのを待って梱包を開くことにしよう。
 
 其の屏風の1点は、学生の最後に描いた4点の作品の中の1点である。前記の様に与えられた,実習室では十分の広さがなく、講堂の一部を占領して、パネルも近くの材木屋さんから頼んで学校まで運んでもらい, 普通なら「六つ割り」と言ったかな,3寸角の柱を六つに割ったもので,鋸目を引くと(1寸×1寸5分)だから約3cm弱×4,5cm弱の棒を作ってもらい、パネルを制作する骨に使って鋸、金槌と釘を使い,自作の簡単なものが常であったのだが、この時は間仕切りの建具か屏風仕立てにしようとあえてフラッシュにしてパネルの厚みを2cmに押さえた。    「みんなとは違うんだよ」と少し悦に入ったことを覚えている。
 今思えば、材木屋さんに頼むのでなく襖屋さんに頼めば、なんてことなかったのであろうが、まだ学生気分は、そこまでのアイディアが浮かばさなかった、はじめから屏風を頼んでおけばなお良かったのであろうが、そんなプロの職人さんに頼むことなど、全く考えもつかなかったものである。京都の店から搬出のおり、こんなに重かったかびっくりであった、トラックに乗せるまで、4人の力が必要であった。 多分、学校での制作、京都での個展お後、東京での個展に使用するまでも、まだ屏風仕立てではなかったはずである。あの頃はいくら若かったといえ,一人では作業するには、あまりにも重すぎたからである。
この時の4点の作品のうち、1点はまだ手もとに有り、いろいろ手を加え遊びすぎて今見る影もない、さらに1点は4枚バラバラにして全く違った絵にして其の部分を利用して、別の絵となり、2枚分は、人手に渡ったはずである。残り2枚は粗末な倉庫に入れたままでベニヤが湿気てシロアリの餌食になった、さらにもう1点は、そのままの姿を残したまま、今の国富でのアトリエを建てる時に間仕切りとして建具に使用していた時期が有る、
 後に修正をして、工房での個展で披露し、その折に蝶番をつけて、長野の木曽福島興善寺の宝物殿に,他の多くの作品と一緒に収まっている、
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京都で、まとめて描いた最後のシリーズだったかもしれない。
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by shuhei-tateyama | 2013-06-23 18:53
京の四季
京の四季(1)

 1971年、京都市立芸術大学美術学部専攻科?卒業まじかの年だったと記憶している、先輩染織家と真新しく河原町に出来た美術館を借りて、2人展をやった。立命館大学や、京都府立病院が近くに有ったことを覚えている。43年前のことになる。
 日本画の教室では狭すぎて、大学の講堂を占拠して、3・6のベニヤ板でフラッシュパネルを16枚用意、4枚を1点として4点の作品を仕上げた。我が愛する美大を卒業したくなく、あえて卒業制作展の出品を拒否し、勝手に学外展覧会をやった、このことは、その後に大きな事故であったことを自覚しなければならなかったのである。
美術大学を出て,絵描きになろうとすれば、まず、日展.新制作(のちの創画会)、あるいは院展のどこかの地方展春期展にまず出品することから始まる。いわば下積みから段階を踏むのが常道であった。
  
 いっぽう 其の2年前、学部卒業制作の折は,作品の、構図も定まらず、100号程度のパネルに、雲肌麻紙を使用、胡粉でメドメをしたままで、小下絵は、勿論、草稿なるものも出来ないまま,途中新入学試験のために教室が使えない状況も重なり、学部卒業制作展は 追いつめられていた、教授達は、すでに関心はなく、これまでの4年間、ラクビーに専念し、教授会達との合評会など、出たり、出なんだりで,教室では全く違う方向を見ていた私の制作は、だれも興味をもつものはいなかった。一人を除いて。
 入試も終わり教室が使える様になる頃、もうほとんどのクラスメートは仕上がり搬入を待つばかりで、教室はガランとしていた、搬入の日まで、制作室は24時間、4日間、日に2ー3時間はうとうとしたろうか。120号程の制作仕上げに、意外に疲労感はなかった。むしろ、卒業できる、安堵感がただよった、作(北山杉)は搬入を他人まかせ、一人鞍馬の釜風呂に逃亡した。

 展示終了後、事件は起きていた。4年間の日本画科劣等生が、全卒展最優秀賞を取るという、アクシデントを犯したのである。間違って?、今も、その作品は大学の収蔵庫にはが永久保存されているはずである、残念ながら、本当にその作品が、今も存在しているのか確認する術を知らない。45年も昔のことである。 

 それから2年が経って、いよいよ大学を卒業しなれればならない時、日展や創画会,院展にも誘われたが、努力をしてプロの絵描きになろうなどという気は毛頭なかった、にもかかわらず、大学を卒業したくなかったのは、まぎれもない事実だったのである。
 学生時代、関西テレビ、太秦の東映撮影場、の美術制作にてアルバイトをさせていただいていたし、内緒で号2000円のパン絵を描いていた時代である、初任給4~5万円程度の勤めが出来ない状況に有り、生意気な盛りであった。 
  
 年間12000円の授業料を払えば、描きたいと思いさへすれば、何処にでも我アトリエに変わる、スペースがこの学校には有ったからである,卒業してしまえば、行く所のない不安が有った。
 年12000円の家賃と思えばこれほど恵まれた処はなかった。
そのために卒業をしたくないがため、卒展の出品を拒否しょうとしたのである。それを知った教授会は激怒をした。
 いまおもえば、誰もが滑稽に思うだろうが、当時本気に考えていたのである。
まじめに教授にも相談したが一蹴され、卒業制作を出さないまま、追い出されることとなった。普通の大学であれば、卒論を出さないまま、卒業した様なものである。今なら大事件であろう。思えば古き良き時代であったと、言うことか。

 その時の作品が、43年の時をへて、宮崎国富のアトリエに帰ってくる。
2013年6月11日その受け取りに京都を訪ねた。
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by shuhei-tateyama | 2013-06-19 02:15